ガケ書房の山下と申します。
今年はこの企画をどんどん推し進めていこうと目論んでおります。
体力続く限り・・・・。
6人目です。どんな企画かというのは、カテゴリリストからタブーインタブー
の前回までのところをご参照くださいませ。
6人目です。その方は恐竜のように白川通りをドシドシねり歩いています。
以前にガケ書房でイベントを開いていただきました。関西パンクの要です。
しのやん です。
どんな人かというと、70年代後期に超高速パンクバンドの先駆け SS と
いうバンドでギターを弾いておられました。
SS は、町田町蔵(康)率いるINUやウルトラビデ、アーント・サリーとともに
関西パンクシーンの初動となったグループです。結成当時、しのやんさんは
まだ高校生だったそうな。その後、幾つかのバンドを経てコンチネンタルキッズ
というバンドに移行していくわけですが、そんな重鎮へお決まりの3つの例の質問。
①あなたの現在の主たる収入源は何ですか?
しのやん(以下し)「そうやなぁ。まぁ、イベント制作とレーベル運営かな」
山下(以下山)「Rock A Go Go企画ですね。こちらのレーベルはいつ頃から
やっておられるんですか?」
し「2002年ですね。当時、僕は全力オナニーズというバンドにいて、そのバンド
がオーストラリアツアーに行った時に仲良くなった地元のバンドが日本でツアー
をしたいというのでRock A Go Go企画を立ち上げたんですよ」
山「なんとなく流れで出来てきた感じですか?」
し「そうそう。レコード製作もそう。その頃に、騒音寺のナベちゃんとも知り合って、
彼らのCDを出すためにレーベルを立ち上げた」
山「現在CDは、何タイトルぐらい出てるんですか?」
し「12・・・・ぐらいだったかな? たぶん」
山「た、たぶんですか・・」
SS LIVE! / SS
②どんな中学2年生でしたか?
し「ほとんど学校には行ってないんですよねぇ~」
山「え・・・中学は義務教育ですよね?」
し「親がもう自由奔放な感じだったんで、学校の外で遊んでるほうが
多かったですね」
山「例えば、どこらへんで?」
し「新京極ですね。当時はまだ、うなぎつりとか射的屋なんかがあった。花月も」
山「時代でいうと、昭和何年ごろですか?」
し「昭和・・・・・45~46年かな」
山「ご両親はどんな感じの方だったんですか?」
し「ボブ・ディランが好きな親父で、何にも言われなかった」
山「おお! お父さん、風に吹かれてますね」
し「家の中はヒッピーみたいな人の溜まり場になっていて、年上の人
ばかりでしたね」
山「学校ではどんな存在だったんですか?」
し「ロック好きと言う意味では完全に孤立っすね。だってロック
聴く同級生なんて皆無に近かったし(笑)」
山「ワルな感じでもなかったんですか?」
し「ロック少年っす。当時、洋楽を聴く中学生なんか殆ど居なかったので
ロックの話のできる友達がいなくて、一人で遠くの方までロックコンサート
に行ってました」
山「当時は何を観にいってたんですか?」
し「頭脳警察とかキャロルが出た京都会館のは見に行ったりしたけど、
まだキャロル観に来てる連中も未だロン毛、ベルボトムの人達でリーゼント
のファンなんて未だ来てなかったなぁ。個人的には、カルメンマキ&OZ、
三上寛、村八分、遠藤賢司なんかは好きだったですね。洋楽では、
ELPとか買ってみたりしてた。十字屋で」
山「わー! 京都のレコード屋といえば、十字屋ですよね」
し「映画・プロレス・ロックが三本柱でしたね」
山「自分でバンドとかしなかったんですか?」
し「いや、デブはロックはできないと思ってたんで・・」
山「確か、SS結成当時はほぼ初心者に近かったと」
し「高校の軽音楽部の風習で、無理矢理新入生をバンドに混ぜるというのが
あって、それでジャンケンで負けてギターを弾くことになったんです。本当
はギターじゃなくてドラムをやりたかった」
山「そこから、あの伝説のSSですか?」
し「初めてのバンドを組むって決まった時、自分は勝手に”バンド活動=
オリジナル曲”をやるものだと思い込んでいまして(笑)。皆がレコードを
耳コピーして練習してるとか、コピーしかやらないバンドが存在している
とか、マジに知らなかったんす(笑)。バンドを組んでる人は全てオリジナル
曲創りに精進している人達だと勘違いしてた訳ですね(笑)。とは言え、
自分はコード押さえる指の形は二種類しか知らない状態だし、ベースや
ドラマーも似たり寄ったりだったので、もっと早く演奏しようぜ!とか位しか
出来る事もなくて(笑)。それでどんどん独自のスタイルになっちゃった訳です。
ヴォーカルの人だけは、歌のめちゃ上手い、ちゃんと音楽の素養の有る人
だったんですが、何故かそんな自分等に楽しそうに付き合ってくれて。まあ、
要所要所ではヴォーカルの人の指導が入りましたが(笑)」
山「ステージ衣装の人民服はYMOより早かったんじゃないですか?」
し「あれはボーカルの人の中国土産(笑)」
山「その後のコンチネンタルキッズは何年ぐらいやってたんですか?」
し「10年くらいかなぁ。よく当時を指してパンクシーンとか言われるんやけど、
元々パンクっていう音楽ジャンルや音楽の形式なんて無かった訳で・・・
本人達は一生懸命ロックをやっているつもりだったんですよ。まあ、敢えて
言うなら、それまでのルールを守らないことがルール!って言うのは有りま
したが・・・」
山「コンチネンタルキッズの時のベーシスト・ランコさん(故人)て方は
京都ロックシーンの女番長みたいな存在だったとか」
し「気がクルってましたね(笑)。あの人は、僕より少し上の世代なんですよ」
Beat Crazy Years / コンチネンタルキッズ
③いままで一番の武勇伝を教えてください
し「そうやなぁ。しいていうなら、朝起きたらベッドの周りに刑事が4人
いたときのことかなぁ」
山「そ・・・それは?」
し「結果からいうと、向こうのカンチガイやったんやけど、どうやら売人
と思い込まれてたみたいで。目が覚めたらいきなりゴツいおっさん達が
部屋を荒らし放題に何かを探し始めて、もちろん探しても無いもんは無い
ので、大恥かいて帰っていったけど、あの時はビックリしましたね」
山「そんな寝起きドッキリ、いややなぁ(笑)」
し「でも武勇伝なんて、僕はそんな語るようなものはないですよ。
周りにはいっぱいいたけど」
山「例えばどんなことが?」
し「コンチネンタルキッズをやっていた頃、一番仲の良かった、今は故人と
なった東京のパンクスMとか強烈でしたねぇ~まさに歩くトラブルメーカー
とでも言うか・・」
山「それってブルーハーツの歌のモデルになったと言われている伝説の
パンクスのことですか?」
し「その歌のことは知らないのですが・・・・ある日、ライブ会場に向って
歩いていたら、会場前の道路に、渋滞に巻き込まれてしまって、サイレン
を鳴らしながらも動けなくなっている救急車がありまして・・・・数人のパンクス
が取り囲んでいるので、なんだろうと近づいて行くと、小柄なモヒカンのパンクス
が、てめぇうるせんだよ! このやろぉ! と怒鳴りながら手に持った2メートル
はある様な長い革の鞭で救急車を乱打していて(笑)」
山「どんなシチュエーションなんですか?!」
し「よほどサイレンが煩かったんでしょうね~(笑)。Mの噂は以前から耳に
していたのですが、その日が初対面で。で、何故か意気投合し、その後、
いつも一緒につるんで遊んでました」
山「町蔵さんなんかはどんな感じでしたか?」
し「知り合った時、彼は未だ高校生だったかな。彼は、後にアウシュビッツ
と言うバンドを作った林君(故人)と言う、これまた凄く面白かった人と一緒に、
INUと言うバンドをやっていて、京都のウルトラビデのビデ君や、神戸の
アントサリーのフュ‐と一緒に、京都のドラッグストアや天王寺のマントヒヒとか、
当時、数少ない誕生したばかりのパンクロックに理解を示してくれたお店で
呑んだりしてました。結構酒癖が悪かった記憶がありますね(笑)」
山「いやいや今回は、質問を越えて思わず日本のパンクヒストリーを
聞いてしまいました」
こんな自由奔放なしのやんという人物は、<とんぷく荘>という伝説の下宿屋を
営むお父さんの影響なしでは考えられない。今日もしのやんは、左京区を練り歩く。
OUTLOWS IS NICE GUY / コンチネンタルキッズ